みなさんこんばんは、はりです。
最近一気に気温が下がり冬本番という感じがしてきた今日この頃です。(たまにこういう感じになるのなに?)2023年もいよいよ残り1ヶ月と少しですが、異次元フェスも控えていて最後まで楽しみが盛り沢山な年末となりそうです。
さて、今回は蓮ノ空のスリーズブーケの楽曲について、ひとつのテーマから見ていきたいと思います。そのテーマがこのブログにあるタイトルの通りですが、時間という観点から見ていきます。あまりにも素晴らしかった蓮ノ空1stライブが終わり、少しの寂しさも感じるいまだからこそこのテーマの話がしたいと思い、筆を執り始めた次第ですので少しお付き合いください。
※歌詞の解釈は私なりの解釈であり、これが正解などと書くつもりは全くありません。それと、残念ながらこの文章は所謂『怪文書』に近いものであると自認しているため、理解することは出来ないかもしれません。
はじめに
まず初めに、そもそもの話ですが、私は『時間』という概念が大好きです。(唐突な告白)というのもラブライブ!シリーズの何よりもの魅力だと感じるからなんですよね。µ'sが好きになったあの頃からずっとラブライブ!シリーズの中で一貫する概念である『いまを大切に』ということは誰しもが感じることでありますが、何となく解っていても中々言葉にしたり、いざそれを大切にしたりというのは難しいことでもあるなと、蓮ノ空を好きになってからより感じるようになりました。
その中でもスリーズブーケの曲は時間という概念を謳った歌が多く、またそれを綺麗に表現しているといつも感じていて。今回はひとつの楽曲に焦点を当てるのではなく、ひとつの焦点を決めて楽曲に目を向けていきたいと思います。
これを書こうと思ったのは自分の中で『いま』という瞬間の意味をもう一度言語化したかったから、というひとつの理由です。蓮ノ空1stライブ東京公演で何名かのキャストさんが話してくれました。「福岡では披露しなかった曲も披露出来て嬉しかった。これもあの日から歩んだ時間を感じられるから」と。
蓮ノ空という『実在性』を極限まで突き詰めた存在だからこそ、『いま』という時間が我々と等しく存在する、その結果『いま』という時間の大切さだったり刹那性、切なさもあるでしょうか。それらを感じさせる場面が本当に多いんですよね。
さて、本題に入る前に時間という概念について少しだけ当たり前のことを書いておきます。まず本記事で扱うのは基本的に次の3点です『過去』『いま』『未来』。当然『過去』には昨日も1週間前も1ヵ月前も1年前も10年前も100年前も内包しますし、『未来』も同様です。『いま』にはイマしかなく、これを書いているこの瞬間であり、これを読んでいる瞬間です。
そして時間を見る時の見方には実は意外とたくさんあって、過去からみたいまと未来、これの視点の入替。それぞれに時間の概念が存在すること。
これらを基にブログを書いていきます。
『過去から見たいま』と『いまから見た未来』
過去という時間からいまを見ているというのはどういうことかというと、『未来』に想いを馳せたり、期待したり、不安になったり、ということでしょう。
ここで取り上げるのが、『Dear my future』という楽曲。この曲はタイトル、歌詞からも分かる通り、〝ある時点〟の自分から未来の自分に宛てた手紙です。当然曲中には細かい事は歌われることはありません。ひとつの解釈としては『いま』自分が未来に当てた手紙を歌にしている。ということが挙げられます。
未だ見ない 明日を生きるあなたへ
「Dear my future」より
『明日を生きるあなた』への手紙。この曲を歌う側は当然『いま』歌うわけですから、未来に宛てた想いを歌うわけです。でも聴く側はリアルタイムで聴く場合よりも、過去に歌ったものを聴くことの方が多いでしょう。それに加えて少なくとも自分は、この曲を聴いていると、スリーズブーケから宛てられた手紙であると同時に、過去の自分からいまの自分へ宛てた手紙であるようにも感じられます。
『いま』聴いているDear my futureは少なからず過去という地点よりも未来に進んだいまのはずです。
いま聴いているDear my futureはどう響きますか?
過去の自分から宛てられた手紙にどう答えを出しますか?
これが『過去から見たいま』というこの楽曲のひとつの側面です。当然『いまから見た未来』という見方も出来る楽曲ですがこれが『いま』という時間の刹那性でもあるように思えます。
例えば私は1stライブ福岡公演Day2で聴いたこの楽曲が本当に印象に残っており、初めて聴いたのにも関わらず、スリーズブーケの歌であると同時に『過去の自分』から語りかけられているようにも感じました。その時に色々な過去の地点の自分から訊かれ、それに自分自身で答えを出していたのがライブでの『Dear my future』でした。
しかしながらスリーズブーケの2人にとっては自分達の未来に投げかけているはずです。
いつの日か 時間を飛び越えて
その背中をそっと 押せたらいいな「Dear my future」より
不安な未来に対して『いまの自分』がその背中を押すことための言葉を紡いでいるという歌ではありますが、個人的には背中を押す言葉というよりは『寄り添う言葉』に感じられます。応援の詞も、励ます詞も多くはなく、苦しい時に寄り添うような歌。それが結果的に背中を押すことになるからこそ、『いま』という時間を頑張ることを『未来』の自分に誓うのでしょう。
あなたは今 幸せですか
その全てを愛せていますか
私は私を これからも諦めない
あなた自身だから「Dear my future」より
『いま』を頑張ることを『未来』の自分に宛てることは、『未来のいま』に『いま*1』を信じることが出来るからだと思います。『いま』という時間を生きる中で『未来』に不安になるからこそ『いま』を全力で生きられるものであり、それを〝あなた〟*2に約束するのでしょう。
『いま』を生きる
前項では流れゆく時間の中の『いま』の話をしましたが、今度はもっと単純な『いま』について書いていきます。スリーズブーケは『いま』について謳う歌詞が多く存在します。
ねえ聞こえる? 鏡よ鏡さん
今の私たちには あなたはいらない「Reflection in the mirror」より
そうだもう 我慢禁止ね
今日くらいは チートデイにしない? 私たちと
一緒に味わおう 今この瞬間 今この瞬間 今はこの瞬間を「Mix shake!!」より
願いよ今こそ花となれ
この季節と共に「謳歌爛漫」より
いつもより賑わっている橋の上
背中向けて静寂の方へと走る
息を切る鼓動と足音 今はそれだけ
滲む… 汗を… 拭うのも忘れて
走り続けてゆく「眩耀夜行」より
どれも『いま』にフォーカスした歌詞であり、その瞬間を歌う曲。とはいえ別にこれ全てについて書くつもりはありません。ここで書きたいのは『いま』という時間そのものについてです。
極論を言えば本記事を書いている『いま』もあなたが読んでいる時間にとっては『過去』になる。スリーズブーケの2人が歌う『いま』もやがて『過去』になるということです。上記にあげた歌詞の中には梢が作曲したものと、伝統曲がありますが、そこに『いま』に対する認識の差異はほとんどなく、どんな時も『いま』が大切だという価値観は受け継がれてきているもののように思えます。
前項で書いた通り、流れる時間の中での『いま』は過去からも繋がっていて、未来にも繋がっているんです。それが『生きる』ということだと思いますし、だからこそ『限られた時間』というものを感じるのだと思います。
きっといま書いていることは当たり前なのだと思います。過去から繋がった『いま』が特別であるのは、103期生にとってみればつい最近までの環境とは違う、蓮ノ空女学院での高校生活であるからであり、未来に繋がる『いま』が特別であるのは、102期生にとってみればいまが充実すればするほど、終わりを意識せざるを得ないからでしょう。
だから、『限られた時間』ということを私たちは感じるわけです。
これが『いまを生きる』ということなのではないでしょうか。
今を今を今を生きる とてもシンプルなこと
いつもいつもいつも 忘れてしまうの何で
早く大人になりたい
だけど少しこのまま時をかけて
「好きだよ」って気持ちを大事に
今日を過ごせたならきっと365日全部 毎日がHoliday
だって!!!!!「Holiday∞Holiday」より
私たちも、きっと蓮ノ空のみんなも、『当たり前の日常』が続けば『今を生きる』というシンプルなことも忘れてしまうのです。だからこそ「好きだよ」って気持ちを大事に今日を、『いま』を生きることを彼女達は歌うのだと。
今日が終われば明日がやってくる、明日がやってくれば今日は昨日になる。そんな流れゆく時間の中で『いま』を今日を、毎日を特別なHolidayにすることがきっと『いま』を生きるということに繋がるはずです。
楽しいも大切も大好きも
そこにある一瞬を永遠にしよう
何ひとつ無駄じゃない
ワンピクセルのかけがえの無い今「素顔のピクセル」より
私と君の今を繋ぐ
これはそんなストーリー「水彩世界」より
スリーズブーケが歌うこの歌詞は、〝私と君〟の『今』という捉え方と、〝私〟と『君の今』という捉え方が出来ると思っています。*3即ち、スリーズブーケ*4と『君』のいまを繋ぐストーリーであるという側面と、スリーズブーケという私と、『君の今』を繋ぐストーリーであるというふたつの側面を持っているように感じられます。
ここにある明確な差は、いまを生きる私と君を繋ぐものであることと、いまを生きた私と、いまを生きる君を繋ぐものであるということ。
逆にどう捉えようと変わらないことは、『いまを生きる人への歌』であるということでしょうか。
流れゆく時間の中で誰もが『いまを生きている』ということと、いつどこで誰が歌っても楽曲の歌詞は変わらない、ということは絶対に不変であるということ。
水彩世界にはこの面白さがあると思います。もしかしたらこの曲は伝統曲として歌い継がれていくかもしれないし、梢と花帆、このふたりの『第103期スリーズブーケ』の曲になるかもしれない。いずれにせよ、『すべては変化していくこと』を歌うこの楽曲は先述の『絶対に不変であること』があるからこそより強い意味を持つのだろうと思います。
それが『いまを生きる』ということなのですから。
さて、いよいよ怪文書になること際限なし、という感じになってきたので話を戻します。